あいさつ

社長

フィット訪問看護ステーション蒲

房原 篤志 (ふさはら あつし)


サラリーマンから看護師へ

私は大学卒業後、医療とは全く縁のない紙の会社でサラリーマンをしていました。

ちょうどその頃、祖父が肺がんで亡くなったのですが、「肺は胸にある臓器」「がんは治らない病気?」ということ以外、何も分かりませんでした。

例えば、消化器と呼吸器の違いは分からず、循環器にいたっては意味の想像すらできないレベルでした。

しかし一方で、「ヒトは全て亡くなるし、死ぬまでに医療に一度も関わらない人生は無い」と当たり前のことを実感し、同時に「医療の知識は人生を左右する重要な知識だ」と思いました。

そこで、医療を知るためには自分がなるのが手っ取り早いと考え、看護師になることを決めました。

医療職といれば医師と看護師しか思い付かなかったので、医師にはなれないから看護師にと(笑)

社会人選抜という入試方法で、運よく浜松医科大学の看護学科に合格しました。

センター試験(当時)を受けていたら絶対に落ちていましたね(笑)

同級生から「じぃじ」と呼ばれながらも、何とか進級できました。

学生時代で一番の記憶は、2年生のときに東日本大震災があった後です。

片道12時間を運転して、何度も宮城・岩手に足を運びました。

学生なので、とにかくお金をかけずに移動・宿泊して、泥かきや片付けばかりを手伝いました。

その時に得られた仲間とは、学内外を問わず今でも付き合いがあります。

その頃できた浜松医大の災害支援サークル「Luce(ルーチェ)」は今でも残っていると聞いています。

病棟看護師から訪問看護師へ

浜松医大卒業後は、岐阜県の飛騨高山にある総合病院に就職しました。

仕事ができないくせに生意気でしたから、よく叱られましたね(笑)

サラリーマンから看護師になったためか、もともと「医療は人生を豊かにするための道具だ」と思っていました。

そして病棟で働くうちに、自分は「病気を治す“治療”よりも、その人の“生活”そのものを支えること」に関心があることを再認識し、訪問看護師の道に進もうと思いました。

そのことを上司に相談したら、今のうちに幅広くいろいろ見ておけと、外科系から内科系の病棟に異動させてくれ、さまざまな経験を積むことが出来ました。

本当に、当時の師長や看護部には頭が上がりません。

その後、愛知県の名古屋市にて訪問看護に従事しました。

訪問看護の世界は本当に幅が広く、いろいろな経験をすることができました。

足の踏み場がなく今にも左右に積み上げた荷物が崩れそうな部屋から、びっくりするような豪邸まで、年間2000件を超える訪問を3年しました。

主に高齢者を訪問しておりましたので、最期を看取った方も数え切れません。お一人お一人にいろいろな物語がありました。

病院では患者さんが”外の人”ですが、訪問の現場では私たち看護師が”外の人”です。

病院では我慢される方も、家では嫌なことは嫌とハッキリ申されます。

ただその分だけ、心から信頼されていると感じることも多く、やめられない喜びがあります。

 

訪問看護ステーション設立

浜松にはもともと帰ってきたいと思っていましたが、妻がこちらの出身ということもあり、本当に戻ることになりました。

そしてせっかくなので、ゼロから訪問看護ステーションを立ち上げることにしました。

その理由は、一言でいえば訪問看護を広げたかったからです。

訪問看護を広げるためには、たくさんの看護師が働きやすい環境を整える必要があります。

私は、妻と3歳と1歳の子と暮らしています。子どもたちはとても可愛いのですが、正直いって子育てがこんなに大変だとは思っていませんでした。

女性が9割を占める看護師の世界で、子育てと両立する働き方がいかに大事かと実感したのです。

そして、子育てしながら働ける環境は、たくさんの看護師が働きやすい環境なのだろうと思います。

このあたりは看護師特有の感覚かもしれませんが、看護師が働きやすい環境は看護師が整えるのが近道だとも思いました。

目指す訪問看護ステーション像

在宅医療では、同じ症例にもケアの正解がたくさんあります。

その人その人に合ったケアの方法を真摯に考え続けられるステーションにしたいですね。

利用者(患者)さんの満足度が上がれば、働くスタッフの満足度も上がり、逆もまた然りです。

地域で最も働きやすいステーションにすることで、地域で最も利用者さんに愛されるステーションにしていきたいです。

 

スタッフ紹介